思いやりの技術

アメリカに来てしばしば体験することの一つに、「ドアを開けてもらう」があります。

ドアを開けて女性を先に通すレディーファーストはもちろん、男女関係なく自分の後ろから来る人のためにドアを開けておき、

「I appreciate it.(ありがとう。)」

「No problem.(いや、当然の事をしたまでさ。)」

といったようなやりとりをするのが日常です。


アメリカに根付いたすばらしい思いやりの文化だと思うのですが、その思いやりが裏目に出る事があるのです。

前の人のすぐ後ろにいる時にドアを開けてもらうのは嬉しいのですが、7mくらい後ろにいる時に自分の為にドアを開けて待たれると

こっちは気を使わせてはいけないと、少し小走りしてドアに向かう事になります。

私はシャキシャキの日本人なので、留学したての時はこうゆう時に頭をペコペコ下げながらよく言っていました。

「Sorry(すいません。)」と。

待たせてしまっている事に対して「罪悪感」が沸くんです。


そんな事が続くにつれ、私はこう思うようになりました。

「ドア開けてとか頼んでねーし、小走りを強制したり、罪悪感を抱かせるような思いやりは思いやりじゃねー!!思いやりとはもっと高度なもので、形だけ覚えて反復させればいいってもんじゃない。」


これはある本で読んだ事なのですが、

電車で妊婦さんやお年寄りに席を譲る時には、「席譲りますよ。」と言ってはいけない。

ふと立ち上がって隣の車両に行き、あたかも偶然席が空いたような演出をするのが本当の思いやりだ。


これには「なるほどな」と思ったものです。

その通りだ、本当の思いやりとは罪悪感を与えてはいけない。

さりげなく譲るのが日本の美学だ。

アメリカの思いやりの文化は、未熟だ。


長い間こう思ったのですが、

未熟なのはお前だ。

と言われるような出来事にあったのです。


NYに転校する前に、ミズーリ州の大学で1年間ホストファミリーとしてお世話になった老夫婦と別れる時です。

僕はつたない英語で感謝の気持ちを告げ、僕の母からも感謝の気持ちとして日本語で書かれた手紙を渡しました。

後で内容を簡単に説明する予定でしたが、ホストファミリーの方はその日本語の手紙をじっくり見て喜んでいました。(正確には喜んでいるそぶりを僕に見せてくれました。)

彼らにしたら良く分からない線の羅列に過ぎない日本語ですが、その羅列を上から下まで目で追った後、「Thank you(ありがとう)」

と言ってくれました。

たとえ読めなくても母からの思いを受け取った、という事を形として私に見せている。


そこで「思いやりとはこうゆうことだ!」と考え直したのです。


思いやりは技術なのです。

そして受け取る側にもその技術は求められているのです。

最初のドアに話を戻すと、

相手が私にドアを開けて待っているという形で思いやりを示している。

効率を除外視し、僕に対する優しさを態度で示している。

そこで、僕が抱くべき感情は相手の思いやりに対する感謝であり、罪悪感ではないのです。

従って、僕は相手の思いやりの気持ちを思いやり、「Thank youなり、I appreciate it」といった感謝の言葉を伝えるべきなのです。


結果、アメリカと日本どっちが優れているなんてことはないんだなと思いました。


これからは、電車をさりげなく譲るような能動的な思いやりの技術を磨くと供に
何かをしてもらう時にも相手の思いやりを受け取る技術を高めていこうと思った今日この頃です。

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